四畳半商店 店主ドードーの日記

四畳半商店の事と心のうちを出しています。

僕はもの乞いに金をやる。

協力隊に応募する前まで、途上国の開発なんて何も知らなかった。テレビやネットから流れてくるアフリカの貧しい子供たちの泣き顔思い浮かぶ程度だった。

僕はフィリピンの田舎で計3年間生活した事になる。
竹とココナッツの葉っぱで出来た家や、上水道はなく井戸があるだけ、整備されていても乾季は毎日のように断水が数時間、これは電気に関しても同じだ。
身に付けている服や食事、町や身の回りにあるものを見ながら、明らかに貧しい人がたくさん居ることがよくわかった。と同時になぜ彼らは貧しいのかと考える気づきにもなった。

いや、貧しいっていうイメージはテレビやネットの情報ですでに構築されてて、やっぱりその通りだと確認したと言うのが適してる。

けど、フィリピンにお金持ちもかなりいる。
首都マニラには高級車を乗り、不動産や宝石業などを家族経営してたりする。
格差が相当激しい。
マニラのビジネス街じゃ日本と同じように夜おそくまでオフィスの明かりが着いたままだ。

僕はずっとフィリピンの田舎で田舎のフィリピン人と生活を共にし、仕事をすることがほとんどだ。
田舎であるほど、仕事は無く、貧しくなりがちだが、熱帯で自然があるため、食べ物には困らない。裸でも寒さで死ぬなんて事はあり得ない。
地元だから親戚や家族と暮らし食べ物も分け合うし、だから飢え死ぬことは田舎では無いだろう。
マニラや都市じゃその自然もない。出稼ぎに出てりゃ親戚のサポートがない限り路上生活やスラムに住むしかないだろう。

もの乞いになる子供もかわいそうだ。スラムや路上で生まれ育ち、学校にも行けなけりゃ、仕事もない。周りを見渡せば同じ様な子供が路上にいる。彼らも一緒で何もすることがない。腹が減るから、食べ物を買う"金銭"という物が必要だ。
手を広げて金を来れと頼むことが彼らの出来る仕事で、それ以外のアイデアも彼らには考えることすら難しいんじゃないか。

もの乞いにただ金を与えるのは彼らを依存させそこから脱け出せなくなるから、与えない方が良いという誰かが言った理想を思い出す。

けど僕はそうは思わない。
実際僕は僅かなコインをよく与える。路上の子供にアイスクリームをばらまいた事もある。一躍路上のヒーローだ。
あげてもコインだ。5ペソ、10円くらいの価値で、8ペソで瓶のコーラが一本飲める。そんなもんなら依存しても大したことじゃない。あんな小さな子供が細い手で飯も食えないんじゃ依存も何もない。腹空かして苦しんでる奴に飯でも食えって金やるのが悪いこととは思わない。将来的に依存してしまうなんて綺麗事で、彼らは今を生きる為にやってるだけだ。

その"今"を助けないで、将来の
お前のためだから頑張って自立しろって、将来を語るなんてそんなの理想主義者のウソだ。
今日死んだら将来は無い。

彼らは個人で一人の人間が一人の人間に助けてくれと頼んでいる。政府が一人の子供を助けるんじゃない。政府や援助機関レベルではやってはいけない。支援額の桁が違いすぎるし間違いなく依存させる。

これは個人と個人の話であって、それを決めるのは理想じゃなくて、その人個人の気持ちだ。
僕は個人の、一人の同じアジア人として、このおかしな社会の犠牲になった人を少しだけ手助けしたいと思う。
だから僕はこれからもコインを与えるだろう。

そうでなけりゃ、悪いことだってするし、シンナー吸って空腹を誤魔化す。
それくらい"生きる事"に必死だし、死なずに生きる事をまだ選んでいる証明だ。

こんなふざけた世界をそれでも生きようとする力は何なんだろうか。

彼らはいつも一人じゃない。誰かと居ることで気持ちが支えられてるのかもしれない。

日本のように働いていないから社会の害というような軽蔑と失望はフィリピンでは無いだろう。仕事をしていない人が多いこともあるが、それよりも仕事と言うものの価値が低い。仕事をして社会のため、会社のためという気じゃなくて、自分のため、家族のためであって、人生の中でのあらゆる価値基準が違う。無職でも誰も何も言わないんだ。辛い仕事より、仲間と飲んだ方が楽しい。
後も先もない、今楽しい方を選んでるだけだ。

僕らは豊かすぎて想像できない。今しか考えられない生き方なんて。
そんな切羽詰まって生きたことがないから。

僕は今をもっと大事にしたいと思った。今思う事、感じる事をもっと大事にして良いはずだ。


日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」

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